ボールのように弾んで
恩師を思い出す。
僕は十代の頃バレエを習った。先生は堀内完。バレエ界の草分け的な存在だった。
その頃の僕は地元の中学校に通う地味な少年だった。表面は地味でも頭の中は自分勝手な夢がカラフルに展開していた。夢を現実に!何も知らずに前に進んでしまった。
東京都港区西麻布のスタジオのドアを押す。
ピロンピロンと音がして、汗の匂いと香水の匂いがムワッとした。
地下にあるレッスンスタジオから音楽が聞こえる。ピアノの音、ジャズの音。階段を降りていくと、床に脚を投げ出したお姉さんたちがストレッチ。ラインのはっきりわかる体からだ体、タイツもシューズも松ヤニの粉もバレエ用語も全身がうつる鏡も、すべてが一気に自分に押し寄せてパニックだ。
ギョロリとした目で「ヤンパパ~ン」と歌いながら先生が現れる。
その人が堀内完先生。とにかくメリハリがあった。にぎやかで陽気だ。
ど素人でもそこそこにバレエの動きになじませる。強気な指導者だった。
師匠は遠慮がない。
「おまえダサい!」とか「髪の毛ちょっとパーマあててこい!」
「暗い、下向くな!もっとパァッと上むいて踊れ!笑え!」などとよく言われた。
女の子と踊るときなんかはテレまくる僕をみて「何恥ずかしがってんだ、喜べ!」だ。
それまで家で一人でラクガキして遊んでいた僕には、雷に打たれたかのようなショックである。
堀内完先生は舞台芸術学院の一期生で伊藤道郎にバレエを習った。そしてユニークバレエシアターというカンパニーを作り旺盛に振り付けを行った。
教え子はたくさんいて、舞踏の土方巽やピンポンパンの体操のお兄さん金森勢、劇団四季の荒川務。ご子息の堀内元さん充さんもローザンヌ賞をとってニューヨークで活躍していた。
そんなところに通う僕はいつも自信が持てなかった。まあ、幼少期からバレエを習っていたわけでもなく、ちょっとした好奇心からやって来たのだから仕方ない。それでも稽古を重ねれば何かつかめるのではないかと思っていた。
そんなある日、師匠とニューヨークへ行くことになった。当時ローザンヌコンクールをニューヨークでも開催することになり、その見学ツアーに参加したのだ。
僕はなぜか記者のように首から紐付きのボールペンを下げていた。それは父がライターでいつもメモをとる習慣だったからだろう。何か気がついたらメモをとること。それは我が家の伝統だったのだ。しかしあまりにも対象が大きすぎた。次から次へと目の前に現れる現実に翻弄されほとんど何も書くことはできず思い出ばかりが記憶倉庫に入荷された。
その旅で今も忘れられないことは、スクールオブアメリカンバレエのレッスンを一度だけ体験したことだ。この学校はバランシンが教えていたアメリカのバレエの名門で、何の賞歴もない日本人がレッスンを受けることは難しかったのではないかと思う。
僕はニューヨークシティバレエの団員(当時ソリストで後にプリンシパル)であった堀内元さんの紹介で特別にレッスンを受けることになった。
ラッキーである。
教師は頭が禿げてがっしりとした体格の中年男性だった。
10代前半のボーイズクラス。黒い肌や白い肌のにぎやかな少年たち。
みんなきれいな体つきだ。でもうるさい。
タオルを丸めて投げ合って笑い声をあげている。
レッスン内容は特に日本と変わることはなく、むしろ当たり前のバレエレッスンだった。
一人づつ踊るときには笑ったり拍手をしたり屈託がない。
ドキドキと緊張の中の90分はあっという間に終わった。
そこで唯一の注意は「You are a broken bull. Bounce softer like a ball !」
ジャンプが硬い。もっと柔らかくボールのようにプリエして!みたいな意味だと受け止めた。レッスン後に師匠に報告すると「だからいつも言ってんだろうが」と叱られた。
バレエは見た目よりずっと厳しいルールがたくさんあった。その密林のようなルールの森を抜け出して飛び立つことはできなかった。でも知らない世界へカラダ丸ごと突っ込んでみた、そのことだけでこんなに僕は饒舌だ。ラッキーだったぜ。
そんな恩師も今はいない。鼻歌を歌いながら稽古場への階段を降りてくる気配。 バレエスタジオの黒い壁。一人では運べないバー。アップライトのピアノ。ベニア板で仕切られた更衣室。朝倉摂デザインの公演ポスターたち。陽気な声が響く。
「もっと柔らかくボールのように弾め!」いまの僕は師匠にそう言われたい。